プロローグ

8歳か9歳の頃だったと思う。

当時のわたしは今と同じく根暗で、友達も全くいなかった。夢とか趣味とか、当然ながら持っていなかった。そんなわたしを案じて何でもいいから興味を持たせようとしたのか、父はよくわたしを連れて遊びに出かけた。野球の試合やら、遊園地やら。バドミントンのラケットと羽を買ってきて、近くの公園で一緒に遊んだりもした。それでもわたしが心から楽しめるようなことはなかった。

だけど、ある日を境にわたしの人生は変わった。

その日は梅雨の始まりを予感させるような大雨だった。雷がごろごろ鳴っていて、顔には出さないまでも、やはり怖かった。その日ばかしは家でゆっくりしたかったんだけど、父が絵の展覧会へ行こうと言い出した。父の友人の絵が、そこで展示されるらしい。根暗なわたしの弱々しい抵抗もむなしく、わたしはその展覧会へ行くことになった。

着いた場所は、市のあまり大きくない美術館だった。結構古い建物らしく、ところどころ錆びついていて、塗装がはがれていた。雷との相乗効果でそれも怖く感じたけど、父は全然気にしない様子で、わたしの手を引いてドアまで進んだ。

父がドアを開けた。

心臓が一度、ドクンとはずんだ。

凄かった。写真かと思わせるようなきれいな自然画、かわいい赤ちゃんの絵、人の心の闇を映したような抽象画。そのどれもが素晴らしく、雷のことなど忘れてはしゃいでいた。お父さんこっちこっち、ほら見て、これりんごだよ、絵なのに凄くおいしそう!

父は本当に嬉しそうだった。こんなに無邪気に楽しんでいるわたしを見るのは初めてだからだろう。今思えば、わたしはとても恵まれた家族を持ったと思う。

入館してからそれほど経たない内に、父は目的のものを見つけた。父の友人の絵だ。

「高校を卒業してすぐにフランスへ渡って、そこで描き上げた絵なんだとさ」

そう言う父の目線をたどると、そこにはわたしが今まで見た絵の中でも1番凄いと思える絵があった。

それは桜の絵だった。絵がきれいなわけじゃない。きれいなのはきれいだけど、これよりもきれいな絵はいくらでもあるだろう。それでもわたしが凄いと感じたのは、「動き」を鮮明に感じたからだ。絵は止まっている。絵の中に人がいようが動物がいようが、はたまた植物があろうが、それは時間の切抜きであって、決して動くことはない。なのに、この桜の絵は動いている。桜が風でなびき、花びらが風に乗って散っていく。

いつか、こんな絵を描きたい・・・。

それからずっと、わたしは絵を描いている。小、中学生のときは近所の山で、高校生になってからは学校の裏山で描いている。本当はその父の友人に絵を教わりたかったんだけど、その人は展覧会が終わるとすぐにフランスへ帰ってしまった。他の人に教わるとあんな絵を描けなくなってしまいそうだから、その人を追ってフランスにでも行こうか・・・と最近の思うところだ。

そんなわけで、今日もわたしは絵を描いている。

 

 

 

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第1話『絵を描く少女』に進む

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