シャドーボクシング

昨日、同級生の男の子と出会った。

絵を描きたいのに邪魔してきた。正しく言えば、邪魔になった。本人にその気はなく、当然悪気がないことはわたしにもわかっていたけど、やっぱり腹が立った。

こんなことをみんなに言えば、そんなことぐらいで、と思われるかもしれない。

でも、わたしにとっては死活問題だ。わたしにとって、「絵を描くこと」は「生きること」とイコールで結ばれるから。

わたしは絵のためだけに生きている。

小さい頃に見た、あの素晴らしい絵を描くためだけに。

もしあの絵を描けなかったら、わたしはどうなるんだろう・・・時々そう思うことがある。

きっと人生に絶望して、それから・・・あまり考えたくはない。

だから、そうならないために必死だ。わたしは絵に関して人に感想を求めるような人じゃないけど、昨日「写真みたいだな」と言われたから、その感想をもっと掘り下げて聞いてみた。わたしの考える「写真の絵」と同じ意味でこの人は言ったのか。

彼は肯定した。曖昧に答えながらも、確かにうなづいた。

ショックだった。わたしの中では結構あの絵に近づけていたと思っていたのに、他人から見たらそうでもなかったんだ。

写真は時間の切抜きをただ写したもの、幼少の頃に見た絵は時間の経過が感じられるもの・・・。

帰り道、彼からいろんなことを聞かれた。

と言っても、三つしかない。名前、部活、組。同じ組なのに、私のことは全く見覚えがないらしい。

まあ、仕方ないといえば仕方ない。

彼は学校でも目立つほうだから、いくら人間関係に疎いわたしでも知っている。一、二年の頃は校舎が別だった。三年の始業式は、仮病を使って保健室で絵の構図を考えていた。彼との接点はない。だから仕方ない。

いや、本当はそれだけじゃないことはわかっている。

わたしは昔から根暗で、友達がいない。入学当初こそよく話しかけられるが、少し経つとわたしの性格を知って誰も寄りつかなくなる。教室では、いつも絵のことばかり考えている。そりゃあ、彼も知っているわけがない。

・・・じゃあ、なんで?

わたしのことは何も知らないのに、何で気づいたんだろう。写真みたいだと言われてちょっぴり傷ついて、ほんのちょっと声を出しただけで、何でわたしの悲しい気持ちに気づいたんだろう。親とか、そう言う長い付き合いの人ならわかる。でも、今日が初対面です、みたいな人が何でわかったんだろう。

・・・悔しい。よくわかんないけど、なんか悔しい。

だから、

「また調子悪いの?」

仮病で保健室へ。

保健室の先生は四十前後のおばちゃんだ。母と似通った声は、心地がいい気がする。

「すいません、一時限目だけ・・・」

「じゃあ、そこの二番目の部屋ね」

「はい」

言われた通りの部屋に入る。ふかふかのベッドに入り込む。この居心地の良さにもだいぶ慣れた。

保健室の先生は、わたしが仮病を使っていることを知っているんだろうか。

きっと知っているんだろうな。

本当なら紙に名前やらを書かないといけないし、今日は春季課題テストだから、調子の悪い人は保健室でテストを受ける。そのどれもをしないということは、何か事情があるんだろうと思って、わたしを気遣ってくれているんだろう。

そう考えると、ただ絵の構図を決めるためだけにここを利用しているのは、物凄く悪い気がする。まあ、今日は違う理由なんだけど。相馬 裕和(ひろかず)と顔を会わしたくないからだけど。

ボーっとしているといつの間にか寝ていたらしく、チャイムの音で目が覚めた。

いつもならずっとここにいるんだけど、今日はテストだからそういう訳にもいかず、教室へ戻っていった。

二時限目からはテストを受けた。

相馬君とも顔を会わせた。ちょっと驚いたような顔をしていた。

今日は四限目までだ。部活のない者は、そこから自由。当然、わたしは昨日と同じ場所に行くつもりだ。

四限目が終わると、みんな疲れきった顔をしていた。野球部は忙しいらしく、弁当片手に走って出て行った。ミーティングでもあるのだろうか。何人かが机を動かして合わせ、数人のグループになって弁当を食べ始めた。週番の木村さんはまだ仕事があるらしく、仲のいい女子を二人連れて職員室に向かった。佐々木さんは、「あいつら付き合ってんじゃねーの?」と言われるぐらい仲のいい相馬君と話をしていた。「今日は夕方まで部活だよー」「今日は夕方まで勉強だよー」「・・・どうせ、どっか遊びに行くんでしょ」「いや・・・ちょっと桜の生態調査を」「遊ぶんじゃん!」・・・・・・。

みんな、なんやかんやで楽しそうだ。

わたしは、独り。

 

 

わたしはいつもの場所まで歩いていった。最初はなかなか辛かったけど、二年も経てばもう慣れる。

わたしは昨日と同じ切り株に座り、道具を手早く用意した。そして、昨日描いた絵を取り出して。

まあ・・・動いてない・・・・・・か。

結構いいできだとは思ったんだけど。まあ心機一転、頑張るか。

軽くこぶしを握り自分にエールを送って、その絵を地面に置いたそのとき、

サッ、ザッ・・・。

草を踏む音だ。ここに通じる唯一の道を歩けばこんな音がするだろう。

音の方向を見ると、わたしの予想は的中していた。

「やっほ」

昨日の今日なのに、凄く馴れ馴れしい気がする。

「・・・なに?」

「いや、ここの景色ってすげえだろ?もう一回見たくなってさ」

とか何とか言って、目線はわたしの描いた絵に向いている。

「・・・ほしいなら、あげようか?」

「え?いいの?こんなすげぇ絵を?」

自分から「写真みたい」って言ったくせに。

「うん、いいよ」

「いや、そんな怒らんでも・・・」

まただ。わたしはあまり感情が表に出ないのに、この人はわたしのことを昨日知ったばかりなのに、たった五文字しか喋ってないのに、なんで気持ちがわかるの?確かにちょっとは怒ったよ?でも激怒したわけじゃない。なのに、なんでわかるの?

「・・・怒ってない」

悔しい。

「怒るわけない」

悔しいよ。

相馬君は困惑した表情だった。そりゃあそっか。急に怒られて、急に意地張られて、それで納得できる方がどうかしている。

「・・・ごめん」

相馬君は、本当に申し訳なさそうに言った。

「俺、お前がこの絵を褒められたら嫌がること忘れてた。いや、正確に言えば『写真』・・・か。とにかく、ごめんな」

「あ・・・いや・・・」

わたしが悪いはずなのに、相馬君は謝った。絶対に怒るだろうと思っていたわたしには、この展開を予想できていなかった。

急に罪悪感がわたしを襲う。

胸を奥がしぼむような感じがして、少し苦しい。

謝らないと。わたしの非を認めて、相馬君は悪くないと言わないと。

だけど、なかなか言葉は出てこなかった。ただ謝るだけなのに、わたしにはできなかった。

相馬君は、こうもあっさりと謝ることができたのに。

「あの・・・ね」

ようやく声が出た。

「わたしが怒った理由は・・・」

やっぱり謝れなかった。

「キミの言う通り、写真って言われたから」

しかも嘘をついた。

わたしが怒った理由。それは、相馬君が簡単にわたしの気持ちをわかったから。写真って言われたのは、わたしが悲しんだ理由だ。

なんで怒っているんだろう。なんで悔しいんだろう。今まで通り誰からも理解されなくたって、今みたいに理解されたって、わたしには関係のない話だ。なのに、なんで?

「ああ・・・やっぱり」

彼は顔をしかめた。やっちまったな、って感じ。本当に自分が悪いと思っているようだった。鎮まりかけていた罪悪感が、再びわたしに押し寄せてきた。

その後は、沈黙が辺りを支配した。彼とわたしは喧嘩をした後のような状態なので、ひどく気まずいのだ。

「あのさ」

先に沈黙を追い払ったのは彼の方だった。日頃の様子からして、彼はあまりこういう雰囲気は好きではないのだろう。

「・・・なに?」

「なんで写真が嫌なんだ?」

「え?」

「俺よく絵のことは知らないけど、写真ってありのままの姿を写したものなんだから、絵に対してそう言われたら嬉しいと思うんだけど。・・・あ、言いたくなければ別に・・・」

「いや、いい。答える」

罪悪感はわたしの中にまだ残っていた。 

「昔、父に連れて行ってもらった展覧会で、何て言うか・・・動いてるんじゃないのって思うような絵があったの。凄く説明しづらいんだけど、本当にそう思っちゃうような絵だった。わたしはそういう絵を描きたい。・・・写真は動かないでしょ?ほんの一瞬しか写ってない。わたしの描きたい絵とは真反対にあるものだから、言われてちょっと嫌だった。ほんと説明しづらいんだけど、そういうこと」

・・・ちょっとぶっきらぼうな言い方だったかな。いや、もともとこんな喋り方か。

これでも、わたしにとっては精一杯の謝罪のつもりだ。喉のあたりで何かにつかえてちゃんとして言葉にはできなかったけど、気持ち的にはそのつもり。

相馬君は少し考えて、それから、・・・そっか、と言った。なんとか納得した様子だった。まあ、こんなことを思っている人は珍しいから、仕方がないだろう。

ちゃんと謝れはしなかったけど、ある程度の説明義務は果たした・・・か。

そう思って彼に背を向け、まだ取り掛かれていなかった絵描きの準備をし始める。

準備がそろそろ終わろうとしていたとき、わたしは背中越しに声をかけられた。

「今から絵を描くの?」

声が先ほどより明るかった。この人はずいぶんと切り替えが早いんだな。普通の人なら、まだ気まずそうに声をかけるだろう。

もしかしたら、さっきのわたしのわかりづらい説明の中から、また何かを感じ取ったのかもしれないけど。

「うん」

「見させてもらっていい?」

「うん」

見られるぐらいなら構わない。わたしは準備を淡々と進めつつ短く答えた。 

準備が整え終わり、絵を描き始める。構図的には昨日の絵と同じだ。下書きなしで始める。

だけど昨日と同じままでは進歩がないので、色の明るさや塗り方に工夫を加える。今日はじっくり考察して導き出した描き方ではなく、感覚に任せて即興で描いてみた。たまにはこういうのもいいだろう。上手くはいかないと思うけど、新しい発見があるかもしれない。

わたしのではない影がちらりと見えて、後ろを振り返った。相馬君と目が合う。彼は手を軽く振って、にこっと笑いかけてきた。彼はそうでもないかもしれないが、わたしにはまだ気まずさが残っていたので、どうしていいかわからず、結局無視してしまった。

今、わたしは独りじゃない。

そんな考えが脳裏をよぎる。気まずいけど、確かにわたしは独りじゃない。

そういえば、誰かと一緒にいるときに絵を描くのは初めてだ。わたしはずっと独りで絵を描いてきたんだ。

・・・なんか、不思議な感覚だな。

 

 

やはり即興では厳しかった。今日描いた絵は、昨日より断然理想からかけ離れたものだった。さらに新たな発見もなかった。

諦めて帰ろうとしたときは、もう五時を超えていた。昼よりも日差しは弱まっていて、影は薄くなっていた。

わたしのも、相馬君のも。

彼はわたしの片づけを手伝ってくれていた。

「・・・ありがとう」

一応の礼はしておく。

「いや、いいよ。こっちも絵を描くとこ見せてもらったし」

そんな大した絵が描けたわけじゃないんだけど。

片づけが済むと、彼は自分のかばんを持った。

「一緒に帰ろうや。辺りが暗くなってもいけんし」

昨日も同じことを言っていた気がする。意外と怖がりなのかな。

まあ、一緒に帰るけどさ。今から別々ってのもなんか変だし。

わたしもかばんを持ち、彼の横まで行った。

「あれ?荷物は?」

「荷物?」

「ほら、あれ」

彼の指差す方向には、切り株の上に置いてあるわたしの絵描き道具があった。

「昨日も持って帰ってなかったでしょ。あんなの、学校まで持っていくのは面倒。わたし、電車通だから、学校から直接ここに来てるの」

「あ、そういえばそうだっけ」

彼はぽんっと手を叩いて笑った。

鋭いのか鈍いのか、よくわからない。

ここの広場に通じる唯一の道を抜ける。この道は桜に早くたどり着きたいがために、わたしが作った道だ。正確には、何回も通っていくうちに地が慣らされてできた道だ。獣道とも言えるかもしれない。わたしは獣じゃないけど。

「なあ」

ちゃんとした道じゃないから、ここは多くの木に囲まれて暗い。きっと彼の恐怖心を煽っているのだろうと思った。だから、わたしと話して気を紛らわそう、と。

「・・・なに?」

「また見せてもらってもいいか?」

声の調子からして、わたしの予想は外れていた。話のきっかけを作るためでなく、単純にそうしたいだけらしい。

「えぇっと・・・」

正直、迷うな。別に見られるのはいいけど、これが毎日続くんなら考えものだ。相馬君はずっとわたしの絵を見ていた。瞬きしてるのか疑いたくなるぐらい。そんな彼なら、次も同じことを言いそうだ。

チラッと彼を見てみた。わたしの方を見続けていた。

「ああ・・・と、ごめん。嫌ならいいよ?」

考え込むわたしの心境を気遣ってくれたのか、彼はしばらくしてそう言った。謝る言葉を含んで。

そういえば、まだわたしは言葉にして謝れていない。気持ちでは謝っていても、それは彼には伝わっていないんだ。

また罪悪感がわたしの中を駆け巡った。

「・・・いや、大丈夫。いつでも来ていいよ」

「え、ほんと!?」

「う、うん・・・」

断るのは少し気が引けた。

そんなわたしを尻目に、彼は握りこぶしを作り、よしっ、と呟くと、急にシャドーボクシングを始めた。

学校でもいつもこんな感じだけど、改めて意味がわからない。

彼のそれは喜びを表現しているのだろうが、ずいぶんとさまになっていない。大変ぎこちない。

それが、なんとなく面白くて。

つい、くすっと笑ってしまった。

恥ずかしいからすぐに抑えた。彼に見られていないか確認すると、ちょうどシャドーボクシングが終わったところだった。

見られたのかそうでないのか、微妙なところだった。

「それじゃ、次からよろしくな」

彼はそう言って、わたしの目の前でシャドーボクシングを始めた。

・・・見られてんじゃん。

凄く恥ずかしくて、わたしは彼を無視して歩き始めた。

彼が慌ててわたしを追いかける。

「可愛いなって思ったからさ、ついな!」

彼はゲラゲラ大笑いしている。・・・むかつく。

彼とはまた、あの広場で会うんだ。そのときに仕返しをしてやろう。

いつの間にか、わたしの罪悪感やら怒りの感情やらは消えていた。

 

 

 

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