雨の日 前編 |
朝は静かだ。こうして乗っている電車には乗客者が少ないし、寝起きということもあって話し声さえ聞こえない。わたしにとって、絵を描くことの次に幸福な時間だ。 そんな幸福の時間は、平均して三十分程度で終わる。理由は単純。途中下車しなければならないからだ。 車掌の独特なアナウンスが電車内に響き渡る。聞きなれた駅名を耳にして、まだだるい体を無理矢理動かす。 電車を降りると、雨が横から吹きつけてきた。風が強い。吹き飛ばされないように、思わず踏ん張ってしまったほどだ。 慌てて屋根に入りベンチに座る。しかし、雨で濡れた体をよそ目に、わたしは違うことを考えていた。 絵描き道具、大丈夫かなぁ・・・。 一応、ビニールシートはかけてある。問題は風だ。これほどだと、ビニールシートが飛ばされかねない。いや、それも大丈夫か。切り株の根を掘って少し浮かせ、その根と地面との間に四角いビニールシートの四点を挟んである。切り株が飛ばされない限り、道具が濡れることはないだろう。・・・でも、これだけの急角度なら、隙間から雨が入ってくるということも・・・・・・。 自分が無限ループにはまっていることに気づき、ハッと我に戻る。今ここでこんなことを考えても仕方ないんだ。こんな場所に居ずに、早く学校へ行こう。わたしはバッグの中を探り、傘を取り出そうとする。 しかし、傘はなかった。何度も手探りでバッグの中を探る。ない。今度は教科書等を取り出して中を確認した。ない。 最悪だ。学校まで七百メートルはある。走って十分程度、もしくはそれ以上この雨に打たれ続けなければならない。 「傘ないの?」 艶っぽい声が降ってくる。顔を上げると、青島さんが立っていた。 「・・・うん」 「あたしのに入る?」 雨がわたしの頭上にある屋根を叩きつける音が聞こえる。 「え?・・・あぁ、と・・・・・・うん・・・」 あまりいい気はしないけど、今日ばかりは仕方ないか。わたしは青島さんと一緒に登校することになった。 「梅雨に傘忘れるなんて、珍しい子ね」 道中、彼女がクスクスと笑う。こうして笑っていても声に妖艶さが感じられるのは、同じ女として魅力的に思える。 「・・・いつもは持って来るから」 呟くように反論すると、わかってる、と先ほどより笑い声が大きくなる。・・・何がおかしかったんだよ。 「そんなにムキにならなくていいのよ?」 「・・・なってないって」 「ふふふっ・・・」 「抑えなきゃならないほど笑える?傘忘れたのが?」 「ほら、ムキになってる」 ・・・言い返せない。絶妙な誘導だった。 「あはは、柊さんて可愛いね。顔、ちょっと赤いよ?」 青島さんが傘を持っていないほうの手でわたしの頬に触れる。彼女の手はひんやりとして気持ち良かった。・・・ってことは、わたしの顔が熱くなっているのか。 「・・・やめてよ」 「ふふっ、ごめんなさい。わたしたち、一年生の頃クラス一緒だったよね?柊さん、その頃はいつも無表情だったのに、最近はさっきみたいによく感情が出るの。一年生の頃はあたし嫌われてるのかなって思ってたから、ちょっと嬉しくて」 そっか。・・・・・・って、上手くまとめられた気がする。 「でも、本当に変わったよね。今年の四月頃かな」 「わたしは変わってないと思うけど」 「そう?」 青島さんは唇に指をあてて首をかしげた。こういうところも妖艶さを感じる。 様子からして、彼女は冗談ではなく本気で言っているんだろう。だけど、わたしは変わってないと思う。自分のことだから客観的判断じゃないけど。 四月頃・・・か。もしそれが本当なら、相馬君のことも説明がつく。 相馬君は簡単にわたしの気持ちがわかった。わたしの気持ちに勘づいて、理解した。必死に隠して、必死に誤魔化して、いつしか私自身も忘れてしまった気持ちを。 ・・・あれ?わたしは何を考えているんだ? 「雨がすごいねぇ。傘だけじゃ防ぎきれない」 まあとにかく、彼女の言うことが本当なら、わたしの感情が顔に出ていたから、相馬君は簡単にわたしの気持ちがわかったということだ。 にしても、本当に雨が凄い。正確には、風を伴った雨が凄い。腰から下はびしょ濡れだ。 「スカート、乾くかなぁ・・・」 「厳しいかもしれない」 「だよねぇ。湿度高そうだし、そんなに暑くないし」 さっきまでの笑いもなんのその、青島さんは萎えていた。確かにスカートのしっとり感は気持ち悪い。太ももや尻に張り付くし。 「これだからあたし、雨嫌いなのよ。柊さんは?」 「わたしも嫌い」 「だよね、嫌いだよね。じめじめするし、髪ちりちりになるし。街中出るにも傘いるし、持って行ってもこんな感じで濡れちゃうし・・・」 自分で言ってさらに萎えている。そんなんだったらわざわざ言わなきゃ良かったのに。 「わたしの場合、絵が描けないから嫌い」 「あ、そっか。いつも外で描いてるもんね」 「うん」 「雨の絵とかは描かないの?」 「描きたいんだけど、描く場所がない」 「家は?」 「網戸や窓を経由した景色は描きたくないから」 「窓開けたら雨入ってくるね」 雨の絵も見てみたかったんだけどなぁ、と青島さんは雨に激しく打たれ続ける傘を見る。その目線を追って思ったんだけど、傘の内側から見る景色もいいかもしれない。 そういえば、青島さんとこうして他愛もなく世間話をするようになったのも四月頃からか。いや、五月頃だったっけ。いつも絵を描いている所に、彼女と小倉君が初めて来たときだ。小倉君のテンションがおかしかった気がする。褒められるのは別にいいんだけど、あれはちょっと・・・。相馬君の場合はもうちょっと大人しかった。 「ということは、柊さん、今日は暇なの?」 水溜りを少し大股で越えて聞いてきた。 「うん」 「じゃあ、遊びに行かない?柚も一緒になるかもだけど」 「・・・え?」 初めての体験に頭がこんがらがり、他のことがおろそかになってしまい、歩調を緩めてしまう。青島さんは何も言わず、それに合わしてくれた。 「あ・・・ごめ、ん」 「どういたしまして。で、どう?」 「どうって、えぇっと・・・」 ・・・わたしと遊びに行って、何か面白いのかな。 「聞いてなかったの?遊びに行こうって誘ったんだけど」 「・・・やっぱりそう、だよね。・・・・・・いいの?」 「良くなかったら誘わなくない?」 青島さんは、当たり前って顔をしている。確かに、自ら誘うとはそういうことだ。 それをわかっていても、わたしは信じられなかった。もしわたしが彼女の立場なら、わたしのような者は誘わない。だって、こんなに言葉数の少ない根暗と何かを楽しめるはずがない。 「・・・嫌?」 「嫌じゃないけど・・・」 「じゃあ、行こうよ。イオンで、服とか見たり、ゲームセンターでプリクラとかゲームしたりするの。楽しいと思うよ?」 楽しい、だって。絵を描くこと以外で楽しいなんて感じたことがないから、本当にそうなのか非常に疑問だ。だけど、なぜか、 「・・・うん、わかった」 断れなかった。 「それじゃ、放課後空けといてね」 「・・・うん」 服には興味がない。着飾って何が楽しいのかわからない。ゲームは小さい頃に何回かしたことあるけど、特に面白いとは感じなかった。家庭用ゲーム機だけど。プリクラも興味が湧かない。写真を撮ってもらうぐらいなら、似顔絵を描いてもらいたい。 何も楽しいと思うものはない。昔のわたしなら、即座に断っていただろう。 ・・・・・・もしかして、そう思いたくはないけど。 わたしは、本当に変わってしまったのだろうか。
午後になっても雨は止まなかった。梅雨の幕開けを告げるような大雨だ。 「午後からの予定は全てカットする。部活もだ」 四限目終了後、わたしたちのクラスの担任、金井先生がそう告げた。歓声が上がる三年二組。金井先生にとっては喜ばしいことではないらしく、隠すことなく怪訝そうに顔をゆがめている。 これほどの大雨だ。県が大雨注意報や警報を出したのだろう。 先生が教室を出ると、ざわついた声がさらに大きくなった。 「柊さん、柚も一緒だけどいいよね?」 帰り支度を進めていると、もう支度が済んだらしい青島さんが話しかけてきた。 「うん」 「それじゃ、柚のとこ行こ」 「うん」 席替えしたての席を眺めて佐々木さんを見つけると、青島さんがそこへ歩いていく。わたしもそれについていく。 「やや、オッケーはもらえたのかい?」 「うん、大丈夫だよ」 「よし、それじゃ気張って行きますかー」 佐々木さんは元気よく拳を上げ、先頭を切って歩き始める。青島さんは微笑を浮かべている。 わたし、一人だけ浮いている気がする・・・。 「ちょいとー、春にゃん!?」 佐々木さんがわたしの手を取る。急なテンションの上がりについていけない。 「元気ないぞー!せっかく遊ぶのにさ!」 「い、いや・・・」 「あたしたちってば初めて遊ぶんだからさ、もっとテンション上げていこうよぉ」 「・・・えと」 「もっと熱くなれよおお!!」 「・・・え?」 「あれ、松岡修造って知らない?」 ・・・聞いたことはあるけど。 「もう、七海からも言ってやってよ」 「・・・同情します」 「なんでぇ!?」 うわーん、裏切りものー、とか何とか言いながら、佐々木さんは教室まで駆けて戻っていってしまった。 ・・・わたしとは真反対の人だな、性格的に。 青島さんはクスクス笑いながら、下駄箱へ歩を進めていた。 「・・・待たなくていいの?」 「いつもあんな感じだから。多分、忘れ物でもしたんじゃない?」 言われてみれば、確かにそんな気もする。話の流れに乗りながら、ついでに忘れ物をしたから取りに帰ろう・・・佐々木さんの気まぐれならあり得る。 少しすると、佐々木さんが戻ってきた。 「やばいやばい、ムチを忘れるとこだったよ」 佐々木さんは額に手をやり、下駄箱から靴を取り出す。 「何に使う気だったのかしら」 青島さんって、いつも佐々木さんといるだけあって、やっぱりこういうのには慣れているのかな。普通にしれっと返している。 「お・し・え・な・い」 「もしかして、ヒロ君を調教するために・・・?」 それだけじゃなく、からかい始めている。 佐々木さんの顔が見る見る内に赤くなっていく。 「ちょっ、柊さんの前でそれはなし!!」 「だって、柚足すムチ、イコールヒロ君じゃない」 「嘘だよ!学校にムチなんか持ってきちゃだめだもん!校則違反だよ!ってそんな校則ないよ!!!」 慌てているためか、元々こんなのなのか、佐々木さんは支離滅裂な言葉をほとんど叫びわめいている。 青島さんはそれを見て大笑いしていた。・・・なんか怖いな。 イオンに着くと、まず初めに服屋に行った。店の名前は筆記体で書かれてあってよくわからない。仕切りがないから店の外からでも中の様子がわかるのだが、ずいぶんとおしゃれだった。ふりふりのワンピースとか、薄めで目に優しい色を使ったTシャツみたいなやつとか、そういうレディース服を取り扱ってあった。 「う〜ん・・・なんだかなぁ」 カーテンを開けた試着室の中にスカートを履いた女子が一人と、それを見る女子が二人。一見、鏡の前で誇らしげにポーズを決めているように見えるが、佐々木さんは悩んでいるようだった。足が細いんだから、スカートで素足が見えても大丈夫だと思うんだけど。 「十分似合ってると思うけど・・・」 どうやら、青島さんもわたしと同じ意見らしい。 「なんていうか・・・動きづらいっていうか・・・」 佐々木さんはもう一度鏡の前でポーズを決める。ついでに前髪についている緑のヘアピンを付け直す。 「慣れれば大丈夫よ。柊さんはどう思う?」 「似合ってると思う」 「そ、そう・・・?」 自分の履いているスカートを見下ろし、眉を垂れさせる。照れているというのではなくて、自分の考えと二人のそれとで相違があることに困惑しているようだ。 腕を組み、う〜んと唸る。 「・・・まあ、お金ないしね。どうせ買わないんだけど」 佐々木さんはそう言ってカーテンを閉めた。だいぶ悩んでいたようだったけど、結局は自分の考えに従ったようだ。 「柊さんは買わないの?」 「・・・わたしもお金ないから」 「試着だけでもどう?この店のって大体高いけど、試着はただよ?」 「いや・・・なんか悪い」 「そうだよ、どうせだから着てみなよ。あたし、柊さんってワンピース系が似合うと思うな!」 佐々木さんがカーテンの間からヒョコッと顔を出す。 「あなた、ただ単に柊さんに可愛い格好させたいだけじゃ・・・」 「もちのろん!今着替えるから、ちょっと待ってて!」 佐々木さんは顔を中に引っ込め、また着替えを再開した。それから試着室から出て、走って柄や色の違うワンピースを何枚か持ってくると、わたしを試着室の中に押し込んでカーテンを閉めた。 「ちょ、え?」 「いいからいいから、着替えてみてよ」 佐々木さんの声ははずんでいた。・・・なんで? しょうがないから着替えてカーテンを開けると、二人は歓声に近い声を上げた。 「春にゃん、めがっさきれいっさー」 「柚って、結構見る目あるよね」 鏡で自分の姿を見てみると、確かに・・・いや、そうでもない気がする。自分のことだから客観的判断じゃないけど。 客観的判断じゃない、か。 「あれ?気に入らなかった?」 鏡を向き続けるわたしの背から何かを感じたのか、佐々木さんが不思議そうな声を出す。 「いや、そういうわけじゃない。・・・わたしもお金ないから」 わたしがそう言うと、じゃ、次ね、とまた試着室に押し込まれた。中途半端な気遣いは逆効果だったらしい。 その後、わたしはワンピースを四、五枚着せられ、その店を後にした。青島さんが止めてくれなかったらどこまで行ってたんだろう。
つづく
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